徳川家康が江戸を首都に選んだについては色々な事情があったのだろうが、googleマップの航空写真がなかった時に関東平野の可能性に気付いた先見性はすごい。国木田独歩の「武蔵野」を読むと武蔵野の草原から西の富士山、東の筑波山を見ることができたそうである。南にゆっくりと傾斜して東京湾越しに房総半島を構えた日本一広大な平野であり、首都として最高の立地条件だと考えられたのでしょう。
しかしながら三国山脈、関東山系から沢山の川は良いのだが多過ぎるため防災対策が必要であった。そこで家康は東京湾に向かって流れている利根川の流れを東に移動させ、鹿島灘へ水路変更をおこなった。次いで飲料水のために神田上水と玉川上水の整備。次いで土地を拡張するための東京湾の埋め立てと共に上水と海水とを使った流通路としての運河構築、江戸城の内濠、外濠など灌漑工事など家康の壮大な構想のもと全ての職種の人が住み易い街として江戸の街が作り上げられたのです。1700年頃には人口100万人以上でパリ、ロンドンと並ぶ大都市となったそうである。(以上門井慶喜 (著)、「家康 江戸を建てる」より)
このように江戸は荒野の中に家康の知恵で作り上げられた街なのです。
その後、関東大震災、太平洋戦争、2度のオリンピックなどでその歴史が消されてしまったものが多い。
明暦の大火で江戸城の天守閣が消失したが、徳川歴代将軍は平和な街に人を威圧するような天守閣は不要であるとして再建はしないまま現在に至っている。しかし1985年(鈴木俊一都知事)に東京都庁舎の移転が決定され、新宿に威圧的な庁舎ビルが建設されてしまった。都民が望んだものではない。しかもこの土地は淀橋浄水場があった所であり、この浄水場がなくなったために皇居のお堀の水の流れがなくなり単なる水溜りの濁り水になってしまっているそうである。
家康は多くの人が平和に住める街を造ったのだが、今の都心部には人が住み難くなり、政治、商業の場になってしまっている。街には3世代の人々が寄り合って安心して住めなくてはならない。パリ、ロンドン、そしてニューヨークの5番街にも多くの人が住んでいるのです。
今朝の朝日新聞によると神田で歩道拡張のために銀杏の木の伐採を区長が強行しているという話が出ている。同じように神宮の再開発と称して昔からの多数の木々、銀杏並木の伐採を小池知事が決定したが、知事のご乱心を止められる都議会の監視能力はないようだ。庁舎タワーの知事室から東京の街を見ながら考えるのは、どこに自分の名前を残す記念工事を行うことができるか、知事の個人的野望であり、300年先も見て都市作りをした家康に叱られますよ。