「世紀の外科医“中山恒明”の人生(1)」語録で綴る中山恒明の生き様
第二次世界大戦敗戦後、復興の時期の日本にあって、近代外科の分野で世界の中山と云われた外科医がいた。世界最大の外科医の組織である国際外科学会より「世紀の外科医(Surgeon of the century)」の称号を与えられ、後年勲一等瑞宝章を授与された中山恒明先生(千葉大学名誉教授、東京女子医科大学消化器病センター名誉所長)である。当時、敗戦国であると云う理由でオリンピックへの参加が許されなかったが水泳で次々に世界新記録を出していった古橋広之進、ボクシングで初の世界チャンピオンとなった白井義男らがスポーツの分野で世界に日本ありを示した姿は日本国民に自身を取り戻すエネルギーを与えた。中山先生は医学の分野で世界を相手に活躍し、日本医学医療の優秀性を世界に知らしめたのである。医療材料、医薬品が不足していた我が国において種々の困難とされていた手術に挑戦し、手術死亡率を飛躍的に改善させた。その巧みな手術テクニックは当時の世界的外科医をして、日本人の身体には血が流れていないのかと言わしめたとの逸話が残っている。中山先生は単に腕のいい外科医というのではなく、誰にでもできる安全な手術法を目的として困難な手術を単純化し様々な工夫開発を行って来られた。また教育面でも学生講義、学会講演、市民啓発講演などをいかに興味深く、解り易くするかに力点をおいて工夫をされて来たと思われます。常にものごとの本質を見つめ単純化して考えるという”Simple is vest”のコンセプトを生涯貫かれたパフォーマンス、プレゼンテーションの天才エンターテイナーであった。ものの本質を見極めるために、段階を踏んだ理詰めの思考過程(Gedankengang)を重視された。物事の考え方を十分に記憶させるためには同じ事を繰り返し話し、本質を理解させるために多くの中山語録が残っている。中山先生を述べるに当たり、これらの中山語録を綴り先生の生き様を紹介する。[人生は経験である]中山先生は明治43年9月25日、東京神田に14人兄弟の次男として生まれ、その後、新潟で学生時代を過ごされた。新潟高等学校卒業を前にして将来の進路について悩んでいた先生は当時の校長であった八田三喜先生から話を伺い、その出会いにより後の中山先生の進路が決定付けられた。八田校長との対話の中で、人生に[ねばならぬということはない] 自分の思ったことをやってゆくこと [人生は経験である] とのはっきりとした決意を固め、医学の道を選んだ。この言葉は中山先生の語録の中で最も有名になっている。卒業後はあえて当時もっとも難しい食道がん手術に挑戦していた瀬尾教授の下で外科医としての研鑽を始めた。[俺の野次馬精神には哲学がある]のことば通りさまざまな方面の臨床研究に精力的に取り組み、多くの成果を上げて来られた。消化器外科手術ばかりではなく、心臓外科、整形外科、脳外科なども経験されている。特異なものとしては自律神経の不調が関係していると考えられている四肢の血管の循環障害、喘息などの治療としての頸動脈球摘出手術、その他重症感染症に対する治療としての患部を栄養している動脈を経しての衝撃的動脈内注入療法などは抗生物質の無い時代の重症感染症に対し劇的な効果を示しており、この研究に対し朝日科学賞を受賞している。このように多くの領域の難病の治療を手がけて来られたが、これらは目の前で苦しんでいる患者さんを直すための挑戦であり、まさに哲学を持った野次馬精神で多くの挑戦を行って来られた。「患者さんのために良かれと思った事は何でもやって行くのです」「何もしないのは、やり過ぎるよりも悪い」とのスタンスを崩される事はなかった。新しい手術方法の開発ばかりではなく、手術を補助する機器の工夫で沢山の中山式の手術道具などが残っている。より正確な診断のための新しい検査法の開発。また全身の栄養状態の悪い患者さんに対する種々の栄養法の工夫。手術だけでは直せないと思われた患者さんに対しての補助的治療。臨床現場での医療安全への取り組み。専門的医師の育成のための卒後臨床研修制度などにも早くから取り組まれて来た。癌の早期発見早期治療の実践のための検診システムの構築など、すべて40年以上も前にすでに取り組んでこられたのである。文字通り「人生は経験である」ので何でもやって行こう、を実践してこられたのである。個々の事柄に付いては順次紹介して行くが、これらの事柄はすべて日本国内で行われた事も特筆すべきことである。海外講演に世界中を回られ、何度か随行させていただく機会があったが、訪問先の教授よりProf. Nakayamaは何処の国へ留学して勉強したのか? と何回か聞かれ、一度も海外留学の経験は無いとの答えに二度びっくりしていた。純粋にMade in Japanの牛刀であるのです。「人生は経験である」は中山先生の一番有名な座右名となっていたが、実は88歳の誕生日を期してこの言葉を変更されている。これについては、その内述べる事にする。
「世紀の外科医“中山恒明”の人生(2)」語録で綴る中山恒明の生き様
[はじめたら止めないこと]
(物事ははじめることが半分成功したことであり、途中で止めないことが完遂の秘訣である。)
昭和9年3月千葉大学を卒業後、中山先生は敢えて厳しい外科教室として有名であった瀬尾外科に入局した。瀬尾貞信教授は最も困難な手術で、世界的にも成功していなかった食道がん手術にライフワークとして挑戦していた。昭和7年の日本外科学会での瀬尾教授の講演では、当時世界で手術成功例は7例のみと報告されている。中山先生が入局以来、食道がんの手術はすべて瀬尾教授が執刀され、中山先生はもっぱら助手を務めて来ていた。この時代になっても食道がんの手術を行う施設は世界的にも限られており、手術死亡率は高率で、大部分の方は手術で亡くなると云う状態であった。そして例え手術が成功であっても1年後の生存率は数%であるという厳しいものであった。しかし未だ食道がん手術を制服の兆しが見えていない昭和21年、挑戦の半ばにして瀬尾教授が肺がんで床に就かれた。瀬尾教授の悔しさは、いかばかりであったか計り知れない。
昭和21年3月、助教授であった中山先生が瀬尾教授に代わって執刀医としてはじめて食道がんの手術を行うこととなった。はじめての執刀医としての手術は、実は術中に大きなトラブルがあったが、中山先生の機転で対応し結果は大成功であり、新しい術式を生む事になった。ここで中山先生の吊り上げ法による無縫合食道がん手術が誕生した。手術の結果報告を中山先生は直接、瀬尾教授にすることができなかった。しかし他の医師、看護婦から手術の詳しい報告はなされていた。永年、挑戦してきた手術が成功したとの報告を受けた瀬尾教授の心境はどうだったのであろうか。昭和21年10月5日瀬尾教授が亡くなられた。
昭和22年3月瀬尾教授の後任として第二外科教授に就任。36歳。それまでは東京大学出身者で占められていた千葉大学に置ける始めての本学出身の教授の誕生であった。これを契機に食道外科は新たな時代のステップを踏み出すことになった。瀬尾教授の遺志を引き継ぎ、しばしば瀬尾教授が言われた言葉を守り、文字通り[はじめたら止めないこと]を実践して行った。急速に食道がん手術の安全性を高め、世界に比較できる施設がない程の手術数と手術死亡率の改善を記録していった。
昭和35年前後の海外の施設の報告では、手術死亡率は20%~50%であるが千葉大学は5.8%であり、手術数は1422例で他の施設より一桁多いという状況にまでになっていった。また当時、食道がん手術後に5年以上生存した方は世界の集計では150例であったが、その内の82例(55%)は中山先生の手術例が占めていた。
その後も次々と手術の安全性を高めるための術式の改良を続け、胸壁前食道胃吻合術、食道がん三期分割手術などを開発し、手術成績は他の追随を許さないほどに改善され世界に中山の名前が広まった。
手術術式ばかりではなく術前の正確な診断を得るための放射性核医学検査法、内視鏡検査法、手術前の補助療法としての術前放射線照射療法、その他術前の栄養対策としての胃婁増設によるミキサー食栄養など、食道がんに対する治療成績を改善するために良いと思われたことは何でも取り込んで行った。まさに「はじめたら止めないこと」を貫き食道がん治療の世界的権威としての仕事を完遂された。
この言葉は医局会、講演会、テレビ放送でも、あの特徴ある大きな声で
「はじめたら止めないんですよ、成功するまで止めねぇんですから、成功するしかないんです…と云うことなんです」と何回も繰り返し話しておられた。
「世紀の外科医“中山恒明”の人生(3)」語録で綴る中山恒明の生き様
腹腔内膿瘍の内瘻化治療
胆石胆嚢炎で胆嚢の中に膿が溜まった状態で、高熱と腹痛で苦しんでいた人が自然に治ってしまったという記録が少なくありません。お腹の中で胆嚢の1/3は肝臓にくっついていますが、反体側は横行結腸に接して包まれたようになっています。胆嚢が炎症を起こすと胆嚢は周りの横行結腸に癒着をおこします。更に炎症がひどくなると、この癒着した部分の胆嚢の一部分が壊死に陥り、さらに癒着した部分の腸の壁までも壊して膿は大腸の中に流れ込み、胆石も同時に腸の中に落ちてしまうことがあります。このような経過を胆嚢の大腸への内瘻化と呼んでいます。こうして医者が何ら治療を行わなくとも、自分の自然治癒力で胆石胆嚢炎が治ってしまうことがあるのです。
このような機転を利用して、腹腔内に出来た膿瘍(膿の溜まり)を積極的に腸に内瘻化して治すことができるのです。中山先生が行った方法です。虫垂炎のために盲腸の周囲に大きな膿瘍を作ってしまうことがあります。
このような状態に対し、小さな傷で開腹し膿瘍に付着している腸の対側の壁を切開し、腸の内側から膿瘍に付着している部分の腸に孔を開け、ここから膿瘍の内容が腸の中に流れ出るように処置します。初めに切開した部分の腸を塞ぎ閉腹します。これが、中山先生が行った積極的自然治癒力を応用した治療法の一つです。
勿論、外科的に盲腸部分の腸の切除とともに膿瘍を切除してしまう方法が行われても誤りではありませんが、大変に大掛かりな手術となってしまうことがあります。
私たちもこれにならい、幾つかの有効な方法として行って来た事例があります。
手術後などに腹腔内に限局した膿瘍が残り難渋することがありました。多くは消化管の吻合部の縫合不全が原因で、その周囲に消化管内容が漏れたために出来てしまったものです。通常は縫合不全の可能性が考えられる場所付近に細いチューブを置き、術後しばらくこのチューブ端を体外に出して置きます。もし少しでも吻合部の漏れが起こればその内容を体外に出してしまい、腹腔内に広がらないようにして置きます。このチューブのことをドレーンと呼びます。そしてこのドレーンにより、内容を体外に誘導してしまうことをドレナージと呼んでいます。
しかし、この留置したドレーンからのドレナージがうまく効かない時に、その部に腸内容が溜まり炎症が起こり、膿が溜まってしまうのです。
このような時には、ドレーンの位置を動かしたりしてドレーンの先端がうまく膿瘍の位置に向いてくれるように処置をするのです。体外からレントゲン透視、CTあるいは超音波検査などをたよりに操作をするのですが、半分盲目的な操作となってしまいます。いろいろな道具を駆使しますが、これは頭の中で臓器の位置関係などを3D画像として想像して行って行く一つの技術でもあります。
しかし上手く行かない時には、あらためて別の部位からドレーンを差し込まなければなりません。このようにして上手くドレナージが効けば、時間がかかることがあるかもしれませんが必ず治すことができます。
しかしドレーンの位置を移動させている操作中に、膿瘍に接している腸に小さな孔を開けてしまうことがありました。当初は大騒ぎとなったことがありました。腸に孔が開けば、そこから腸内容が漏れだして大事になることが予想されたからです。
だが実際には逆に、その腸の中に膿が誘導され自然に膿瘍が消失してしまったのです。現在ではむしろ孔があいてしまったことで安心したり、積極的に位置を定めて内瘻化を図ったり、まさに自然治癒力を期待した内瘻化処置が有効な方法となっているのです。
中山先生にお話しすれば当たり前だと言われることかもしれません。
「世紀の外科医“中山恒明”の人生(4)」語録で綴る中山恒明の生き様
「医者は自分が治したなどとうぬぼれてはいけない。治るのは患者さん自身であって、医者はそのお手伝いをしているだけなのです」
患者さんの自然治癒力がなければ外科手術は成り立たない、ということをいろいろな機会に中山先生は話されていた。時には「患者さんが治ろうとしているのを君たちが邪魔していることもあるのです」と話されたこともしばしばありました。ですから中山先生が自らを神の手などとおっしゃったことはありませんでした。
中山先生が工夫された多くの治療法は患者さんの自然治癒力を十分に働かせるというねらいが背景となっているのです。
「吊り上げ無縫合法(食道がん手術)」の開発
前の項で紹介したように、中山先生が始めて執刀した食道がん手術では途中に大きなトラブルが起こった。中山先生のとっさの機転で乗り切り、結果としては新しい手術法の開発という結果となった。この成功は中山先生が苦し紛れに一か八かで行ったものではなく、成功するはずであると信じて行われたものである。患者さんの自然治癒力を期待し、それが十分に働くように手助けを行えば良いという中山先生の確信に裏付けられたとっさの対応だったのです。
その時の手術について説明します。
中山先生の恩師であった瀬尾教授は当時世界で7例しか成功例がないと言う食道がん手術(下部食道がん)に挑戦していた。この手術で最も難しいところは癌の部を切除した後の食道と胃の縫合であった。手術で亡くなった方の大部分がこの部の縫合不全による腹膜炎が死因であった。食道は胸の中にあり、胸部と腹部をさかいしている横隔膜に開いた孔(食道裂孔)をくぐって腹部にある胃につながっています。食道を切除するにあたっては胸を開いて食道に到達すれば簡単なのですが、胸部には肺があり胸を開いてしまうと呼吸が出来なくなってしまう。そのために胸に触れること無く腹部からの操作のみで手術を行わなければなりませんでした。横隔膜の食道裂孔から引き出しせる胸部下部食道の範囲だけが手術できる限界です。最長でも10センチ以下の下部食道と胃の一部を含めて切除されます。(気管の中にチューブを入れて人工的に呼吸が出来る方法が開発された昭和26年以降は胸を開くことが可能となった。)
切除後は食物の通り道の再建として、食道の断端と残った胃の上部とを縫い合わせなければなりません。この部はみぞおちの部の奥深くにあり、視野も悪く狭い中で縫合操作を行わなければなりません。当時はドイツ医学の方法が主流であったそうで、瀬尾教授も食道と胃を密にがっちりと縫うやり方で縫合を行っていた。助手を務める医師は手術をし易くなるように、良い視野を作ろうと腸を押さえたり、糸をうまくしばったりしなければならないのです。途中で手術がうまく行かなくなると次々に助手は交代を命じられ、控えの医局の医師がいなくなってしまったと云う話も残っている程、困難でありました。術後にこの縫った場所がほころびのようになり、そこから食べ物がお腹の中に漏れ出てしまい腹膜炎となってしまうのでした。中山先生は何例か手術で亡くなった方の解剖に立ち会う機会があり、縫合部を観察したそうである。食道を引っ張って縫合してあるため、吻合した部分に張力がかかってしまうことも縫合不全の原因と考えられた。また縫合不全が多く起こるために、瀬尾教授は更に細かく細かくしっかりと縫っておられた。その結果、縫い代の部分には血液が行かなくなり、その部が腐ってしまうことがほころびの原因になっている可能性もあると考えられた。しかし当時は教授に対して医局員がそのようなことを言えるような状況ではなかったようである。
さて、昭和21年3月、瀬尾教授が肺がんになられたため、中山先生がはじめて執刀医となって食道がんの手術を行うことになった。瀬尾教授の助手として多くの食道がん手術を観ていた中山先生には何の滞りもなく、下部食道の切除が終わり再建に移るところまで進んだ。いよいよ難しい食道と胃の縫合になったが、この時、引き出した食道を挟んでいた鉗子が弛み縫うべき食道が胸の中の奥に引っ込んでしまっていた。引っ込んでしまった食道を引き出すことは困難であった。ここから新しい手術方法の誕生となります。先生のとっさの判断で、口から食道の中に管を入れ、管の先端が胸の中の食道を通って切断された端から出て腹部に出るまで押し込んだ。この管の先端部分に胃の上部を縛り付けた。口の管をゆっくりと引き抜いて行き、管に縛り付けた胃の先端が切断されている食道の断端と密着するであろうと思われるところまで引き戻し、そこで管を口の端に縫い付けた。食道と胃は糸で縫われてはいないがぴったりと密着した状態となっているのである。数日でこの患者さんは順調に治って早期退院となった。
中山先生自身は、この患者さんのことを直接 瀬尾教授には報告できなかったが、他の医師が報告した時に教授は「時代が替わったな」と言われたそうである。
中山先生には運も付いて回っているのであろう。この方法での手術は数例、続けて成功し「吊り上げ無縫合法」と名付けられた。
この手術を振り返ってみると、もし鉗子が外れなければ中山先生も瀬尾教授と同様に苦労しながら食道胃の縫合を行ったのであろう。術中のアクシデントで仕方なく行った方法が成功したのであるが、中山先生にはうまく行く勝算はあったのである。
人間のからだは損傷した時には、その部をぴったりと密着した形でしばらく時間を置けば、自分の治癒力で癒合するのであると信じていたからである。
これは皮膚でも腸でも同じで、糸で縫ったから癒合したのではなく、ぴったりと密着するように糸で固定したからなのである。このような自然治癒を観察できるのは骨折の治療である。瀬尾外科では多くの骨折の治療も行っていたが、治療では折れた骨を元の状態に戻し(整復)、キプスなどでずれないようにしておけば(固定)自然治癒力で骨は癒合する。基本的にはどの組織でもこのような機転は同じことである。
無縫合吊り上げ法では、管で引き上げられた胃と食道はぴったりと癒合してしばらくの間、管で引き上げて固定されていたので自然治癒力が良好に働いたのである。
この自然治癒力を応用した整復・固定の考え方は色々な手術に登場するが中山式胃の切除術の工夫にも登場する。
「世紀の外科医“中山恒明”の人生(5)」語録で綴る中山恒明の生き様
[積極的自然治癒応用手術]
「胃断端後壁固定法による胃切除術」
食道がんの手術とともに胃の手術でも中山式の方法を開発、手術成績は飛躍的に改善し、胃の手術でも世界の中山となっていった。食道がん手術、胃切除術ともに中山式の手術法の学会発表に際しては「積極的自然治癒応用手術」と名付けている。
胃がんあるいは十二指腸潰瘍の手術では、胃の出口部を十二指腸との境目で切断し、胃全体の3分の2程度を切り取る方法が行われます。この胃切除術はオーストリアのビルロート教授が1985年にはじめて成功し、切除後の再建の方法には、ビルロートⅠ法(B–Ⅰ)、ビルロートⅡ法(B−Ⅱ)と二つの方法があります。
B–Ⅰ法は残った胃と十二指腸を直接吻合する方法です。単純な方法ですが残った胃が小さい時には、かなり引っ張って十二指腸との縫合を行わなければなりません。胃はぶらぶらしているので簡単に動かすことは出来るのですが、十二指腸は背中側に固定されているために位置をずらすことが出来ないからです。縫合部に張力が掛かっていると、術後に縫合不全が起こる率が高いという欠点があります。特に十二指腸潰瘍に対する手術では、十二指腸の壁が脆くなっているため縫合することが容易ではありません。そこで縫合部に張力が掛からない方法として考えられたのが、B—Ⅱ法です。この方法では、切断されている十二指腸の断端は縫合して塞いでしまい、十二指腸より下の空腸に胃を吻合するやり方です。腸はぶらぶらしているので簡単に動かすことが可能ですので、吻合部に張力はかからず縫合不全の心配は少ないのですが、2カ所の腸を縫わなければならないため時間が余計に掛かる点、また食物が直接腸に入ってしまい、十二指腸の消化液と食べ物との混ざり方が通常とは異なってしまう(非生理的)という欠点があります。
昭和22年中山先生は、単純であるB–Ⅰ法に工夫を加え手術時間を短縮し、簡素化した中山式手術を開発したのです。
方法としては、胃と十二指腸との吻合部に張力がかからないようにするため、はじめに胃の断端近くを十二指腸に付いている膵臓の頭の部分に何カ所か縫い付けておきます。そうすることにより縫合すべき胃と十二指腸が引き寄せられ、縫合部に張力がかからなくなります。これと同時に術後しばらくの間、鼻から細い管を胃の中に置いておき、胃や十二指腸の内容物を体外に出してしまうことにより吻合部に内圧がかからないようにする処置も、合わせて行うことにしたのです。胃断端と十二指腸の断端が無理なく密着されるようにしてから糸で荒く縫合し、かつ胃液腸液が内腔に溜まらないように鼻から胃の中に管を通し、2~3日間は留置しておき、内容液を体外に誘導することにより、吻合部に張力が掛からないように処置もくわえた。昭和22年、簡単で安全な胃断端後壁固定による胃切除術が完成した。この結果、手術成績は飛躍的向上が見られ、世界的にも中山式胃切除法として普及していったのです。このように胃と十二指腸の断端を密着整復させ、張力および内圧が掛からないようにして固定しておけば、自然治癒力で縫合は完成するという中山先生の考え方がここでも生かされたのです。
中山式胃切除術は世界的にも有名となり、世界各地から高名な教授が見学に来日、学会講演では短時間で出血もしない手術に疑問視する者もあり、幾つかの逸話が残っている。
昭和28年9月中山先生は始めて渡米し直接講演する機会を得た。
昭和21年の食道がん手術の成功、更に22年の中山式胃切除術の開発などにより手術成績の急速な改善は海外にも知られていたが、昭和28年米国から講演依頼があり、始めての米国講演旅行となった。先生は、手術は技術であるので直接見なければ評価できないとの考えで、手術映画作成のために専門の撮影技師の育成を行い、国内でいち早くカラーの手術映画を作成していた。昭和26年には国内学会で映画を用いた講演を行っている。米国講演でも食道がん手術、胃切除術などの手術映画を供覧しつつ、直接米国外科医を前にして講演を行った。大喝采で講演は終了しディスカッションとなった。ここで一人の外科医から、出血も無く30分で胃切除が終了するということは信じられない、と疑いを持った質問がでた。先生は当時まだ十分な英語力がなく戸惑ってしまった。実は海外向けの手術映画での説明は、海外留学をした英語の上手な医局員などが替わって吹き込みを行っていた。聴衆は中山先生が流暢な英語で話したと思い込んでいたため、返答に詰まった様子を見てよけいに映画の内容に疑いを持ったようである。
この時、以前日本の座間の米軍基地に滞在していた時、千葉大学に行き中山先生の手術を直接見学した医師が立ちあがり、この映画の通りであることを説明し、聴衆は納得した。
この講演旅行ではUCALでの講演およびニューヨークでの国際外科学会、シカゴでの米国外科学会でも講演を行っている。
当時(現在でも)米国での外科は、大きくアングロサクソン系の米国外科学会とユダヤ系の国際外科学会である。アジアの医師はユダヤ系に属していた。この二つの流派な全く対立しており、米国人外科医はどちらかの会員であり、両方の学会に属している医師はいないと云われていた。中山先生は国際外科学会の会員であり、支援者はユダヤ系の医師たちであった。このような環境下で両方の学会から招かれて特別講演を行ったと云うことは例外的なことであった。
中山先生はこのような米国の国民性には感心していた。人種差別などが問題にされるが、一方で評価すべきものは正しく評価する国民性だ。行く先々で本当にできるのならやって見せてくれとたのまれ、躊躇無く各地で手術を行った。急速に中山の名前が世界的に浸透していった理由でもある。
その後、英国はじめ諸外国からの講演依頼は教授を退任された後にも続いた。
「世紀の外科医“中山恒明”の人生(6)」語録で綴る中山恒明の生き様
中山外科では、昭和22年の胃断端後壁固定法による胃切除術の開発以降、昭和25年頃には世界的に10%を超えている状況である手術死亡率を3.8%まで改善させた。その後更に昭和30年には2.8%、昭和35年には1.2%と急速に改善し、胃切除は安全な手術となった。
手術の安全性の向上は手術時間の短縮、出血量の減少など中山先生の手術哲学に基づく細かな術式改良の集大成の結果である。勿論、手術機器の開発(中山式胃縫合器)、麻酔の発達、輸血、抗生物質の登場などの要素も大きく役立っていることは言うまでもない。
手術の基本的手技の改良は、単なる思いつきではなく中山先生の手術についての考え方、哲学に基づいている。
「血は血管から出るのです」
血は血管から出るのは当たり前のことであるが、この当たり前のことがおこなわれることが手術の基本としては重要なことである。手術手技を考える時には出血をいかに少なくするかがおおきな要点である。中山先生の手術では、切除予定の部分に分布している血管をあらかじめ縛ってしまい血流を止め、血流が無くなってしまったところを切断してゆくという基本にこだわっている。
「血が流れていねえんですから血管を切っても血は出ない・・・ということですね」と何度かお話を伺った。血管の結紮(縛る)は、枝分かれして分布している血管のできるだけ根部で結紮することで、その数を減らす。胃切除では数回の結紮のみで2/3の切除が終了するので、胃切除までは10分足らずと云う短時間で終了するのです。再建術としての残こった胃と十二指腸の縫合では、縫い代の部分も生きたままで創傷治癒が起こるように、縫い幅を広くし軽く寄せるという感覚の縫い方であるので、これも10分足らずで終了する。結果として胃切除が30分の手術となっているのである。実際の手術手技の一つ一つは難しいものではなく、手順を理解していれば誰でも安全に行うことができる容易な手術であり、これは中山式手術が最も評価されるべき要点である。
このように手術を簡略化していった理由には、戦後で物資がなく手術に欠かせないガーゼなども不足であったため、出血を少なくして早く終わらせなくてはならないという事情もあった。
ガーゼが無くなってしまった時には医局員の古くなった白衣を供出させ、それを切り刻んで消毒して用いたり、新聞紙なども用いたとの逸話が残っている。
海外から見学に訪れたドクターからは、日本人には血が流れていないのかといった感想も出たとのことである。
「中山の左手」
中山先生の手は大きい。特に親指の根元(母指球)部が大きく外側に張り出しており、単に指が長いというのではなく全体が大きいのである。手術用ゴム手袋のサイズは8号であった。男性は7号、女性は6号が標準的にあり、大きな男性でも7.5号であるので8号サイズの手袋は揃えていない施設もある。手術室では中山先生用に特別の手袋として用意されていたが、若い外科医が8号を要求しても、生意気だとして看護婦さんに使わせてもらえなかったという話も残っている。
中山先生の手術を見た外科医の間では、手術中の中山先生の左手の動きが注目されていた。大きな手で臓器をしっかりと握り視野を展開し、手術器具を持った右手と連動して手術を進めてゆく。握った臓器を握り返すことはなく、じっと臓器を握ったままで向きを変えたりして、右手の機器の扱いが容易になるように手術を巧みに誘導している。左手はただ視野の展開のためだけに臓器を握っているのではなく、手術操作を行う部位の目安、あるいは損傷してはならない部の保護などの役割も果たし、すべてが合理的に働いている。右手左手が滞ることなく緩やかに動き手術が進行して行くが、特に左手が手術の流れを先導する役を演じており、その動きが「中山の左手」と云われる所以である。
「茶道に通じる」
手術はリズムに乗って流れるように進行し、留まって見直したり確かめたり戻ったりという無駄な動きが無く行われてゆく様は、舞に匹敵する「芸」であり「茶道」に通ずるものである。このような手術を行い得るためには局所の解剖を熟知していなければならず、中山先生でも日常的にPERNKOPF(ペルンコップ)の解剖書を見返しているとのことであった。中山先生の手術は基本的には術者と一人の助手の二人で行えるように考えられており、手術をスムースに進めるためには、助手も役割を十分に理解していなければならない。助手のやるべきことを覚えることが、若い外科医のはじめの訓練として受け伝えられている。術者をはじめ手術室内のスタッフが一体となった緊張感の中に身を置くことは外科医にとって至福の時間でもある。
「世紀の外科医“中山恒明”の人生(7)」語録で綴る中山恒明の生き様
[だれでも出来る、安全で易しい手術]
現在我が国では胃がん、食道がん、脳腫瘍その他循環器疾患などの手術がいずれも年間5000から10000例以上行われている。これだけの数の手術を安全に行うには一定の技術を備えた相当数の外科医が必要になるとともに、簡素化され容易に行える手術方法が開発されなければならない。中山先生は常に「特定の人にしか出来ない手術ではなく、だれでも出来る、安全で易しい手術」を目指し術式の工夫を行って来た。中山式手術はその病気がどのような病状であっても、基本的に易しい手技の組み合わせで標準化されている。中山先生は手術の名人とされているが、中山先生の手術の神髄は特殊な複雑な手術を行うのではなく、簡略化し標準化された手術をいかに手際よく行うかというところある。したがって見学している人には、どんな手術であっても簡単な手術であるように感じられるのである。特定の人しか出来ないようなやり方に対しては未完成な方法であると評価しておられた。時にはその方法は止めなさいと指示されたこともあった。手際良い手術は緩やかで滞ることない一定のリズムに乗って進行し、決して急いでいる訳ではないのに短時間で完成してしまうのである。このように手際良く進行させるためには、助手のおよび周囲の人間も同じリズムに乗っていなければならない。
手術のリズム
中山先生の手術のリズムは手術室に入ったところから始まる。前もって教授室で手術着に着替えてこられ入り口で帽子、マスクをつけてフロアーに入って来られる。先生は汗かきであるので帽子の下に分厚い鉢巻きを巻いてこられる。大きな声で「婦長さん、おはようどうだね。若いねー」「また先生ったら」となり、今日の手術の順番、手術室の番号などを看護師さんから聞きながら手洗い消毒が始まる。通常教授の手術は朝一番であるので、心臓の榊原教授と並んで大きな声で話をしながらの手洗いとなることがしばしばあった。ブラシを持って石けん、次いで消毒薬を用いたブラッシングし、最後に消毒薬だけでもう一度流して完了。この間長くても5分間。榊原教授も中山先生と同時に終了。お二人とも手術が早いが手洗いも早い。中山先生の胃切除と榊原教授の僧帽弁交連切開が同じ時間で終了し、二人の巨頭が並んで手術場を出て行かれたことがあった。中山先生の手洗いの終了が手術室に伝えられると、それまでの室内でのざわついた話し声が消え、緊張感が漂う。既に麻酔がかかり腹部の皮膚の消毒が終わり手術野に覆布が掛けられ準備が整った状態で先生を待っている。若い医師などは、手術に用いる止血鉗子に糸を掛け盛んに糸結びの練習をしている。「いいかな」中山先生の登場。手術着を付け、看護師さんが広げた8号のゴム手袋の中に手を差し入れ準備は完了。執刀医の場所に着く。第一助手は通常助教授以上の医師、第2助手、第3助手と年齢順に助手として手術に参加する。大きな目でぎょろりと助手らを確認。頭側に麻酔の医師、足下に器械出しの看護師、その他周りに部屋を管理している看護師と最低7名のスタッフ。その他見学の医師が木箱の足台に乗って手術台を取り囲んでいる。中山先生が若い医師であった時代には、他の大学の医師などには手術を見せないのが通例であり、瀬尾教授も同様で自分の技術を盗まれると云っておられたそうである。中山先生は全く逆で、中山式手術を広めるため誰でも見学は自由であり、見学者には特に熱心に手術の説明をしていた。
無影灯に埋め込まれたマイクに向かって「いいですか、聞こえますか」と呼びかける。返事を確認してから今日の手術の説明が始まる。手術のテレビによる実況中継のシステムである。昭和43年12月現在の消化器病センターの設立時、心臓血圧研究所と共用の手術室として心臓血圧研究所病院の中に作られ、その3番手術室の映像が、並んで建てられた消化器病センター内の同じく共用のカンファレンスルーム内に投影されるシステムであった。医局員並びに手術室に入れない見学者が、ここで手術見学をするための設備であった。覆い布を開き腹部を確認してから麻酔医に一声掛けると、看護師の前にある器械台に並べられた器械の中からメスをとり、一瞬で鳩尾の2センチ頭側の位置から臍部の手前までの皮膚が切開され、直ちに開創器で切開創は左右に開かれる。短時間に切開創が開かれて緊張することで創部からの出血が起こらない。これから病気の状態の説明があり、確定術式の説明後に一気に操作に入って行くのである。
切除、再建が終了する頃になると「次いいですか」となる。次の手術室に連絡が伝わる。あとは皮膚を縫い合わせるだけになった所で、先生は手術をおりて次の手術室に移動。通常胃切除で20分、胃全摘術で30分程度、で部屋を出てつぎの手術室へ向かわれる。50代後半までは週3日の手術日の午前中に、このようにして5〜6例の手術を行っていた。食道がんの手術日でも、その他の手術が2〜3例は行われていた。
還暦をすぎられた頃よりは、多くの後継者が育っていたので先生の手術数は減少していった。
多くの後継者は中山先生の手技を引き継ぎ手際よい手術を行っていた。
このように手際よい手術を行って行くには、取り巻くスタッフがチームとして機能を果たすことが求められるのである。見学に来られた他大学の教授などが中山先生の手術と同様に手術助手、看護婦などとの連携プレイに驚かれるのであった。看護師は器械台に道具を並べ、術者の要求に沿って道具を用意するが、メス、はさみなど刃物類は手渡しすることなく術者自身が台からとることになっている。(刃物は危険なため)
手術手順が標準化されているので道具も使うタイミングを看護師は心得ている。また手渡した道具を術者が持ち直すことなく使えるように器具の向きまで定めて手渡すように決まっていた。刃物類以外の器具が必要なとき、術者は手術の視野を見ていて手だけを出すので、手渡しの時には術者の手の握り易い所にしっかり強く押し当てるように渡さなければならない。先生の手の形で何を求めていらっしゃるかのサインにもなっているのだろうか、あうんの呼吸なのだろうか。若い看護師が中山先生の器械出しを担当する時には大変な緊張のようであるが、例えモタモタしても先生が看護師を叱ることはなかった。
助手もそれぞれに役割が決められている。第一助手が一番大切な役割をはたせなくてはならない。第2、第3助手は必ず必要ではないが、一番近くで手術見学ができるのだから何か手伝いをして、と云う程度の役ではある。先生が一時的に鉗子を手から離す操作があり、この時にその鉗子を受け取るために手を出して用意しているというのが第3助手の唯一の仕事であった。またこのタイミングで何をするといったことが決まっているが、それはごく自然な形で流れの中で行われている。この方向に腸を引っ張るなど細かな操作はすべて意味があって行われるものであるので、習い事のように苦労して覚えなければならないといったものではない。都内の有名病院の外科部長が見学に来られたことがあったが、途中で中山先生が助手に「この腸を引っ張っている理由は、この血管を誤って損傷しないためです」と説明された時、その外科部長が「その血管を損傷してもほとんど問題はないですね」と小さな声であったがしゃべった。
それを聞いた中山先生は部長を見つめ「君は95%外科医だな」と言い放った。
途中で中山先生を邪魔してしまうようなことがあった時に第2、第3助手は入局して数年の医師であるために、ぎょろりとにらまれることはあっても叱られることはなかったが、第1助手は助教授あるいは講師などのスタッフであるのでガツンと叱られる。しかし瀬尾先生のように交代させてしまうことはなかった。
「世紀の外科医“中山恒明”の人生(8)」語録で綴る中山恒明の生き様
「買わないくじは当たらない、犬も歩けば棒に当たる」
中山先生は、消化器外科領域とは直接関係ないような研究に多く取り組んで来ていた。入局して間がない頃には、肺がんのリンパ節の検査法として肺動脈造影検査に取り組み、後にこれが「動脈性衝撃注射療法」の開発という大きな業績に結びついている。またその造影検査の処置の過程で、首の動脈壁に付いている小さな繊維の固まりである頸動脈毬に目が止まり、「頸動脈毬の外科」として特発性脱疽、気管支喘息などの治療につながる業績へと発展した。「買わないくじは当たらない、犬も歩けば棒に当たる」の精神で行って来られたものであろう。
瀬尾外科に入局してまだ日が浅い頃、昭和12年日本外科学会で骨折の治療におけるビタミンCの大量投与の発表を行い、それなりに良い評価を受けた。しかし現役での最後の学会出席となっていた京都大学外科鳥潟隆三教授が、その発表を聞いておられた。そして後日、わざわざ千葉大学まで中山先生を訪ねて来られ「君は自分がやるべき本道を踏み外している、あなたには臨床外科医一筋の道を歩いてもらいたい」とおっしゃられたそうである。当時西の鳥潟、東の瀬尾の二人が食道がんの手術に取り組んでいたので、その教室員として中山先生には本気で外科に取り組んでほしいとの願いだったのだろう。まだ入局間がない中山先生を瀬尾教授の後継者になる人物と見定めた眼力は、永年医師を育てて来た鳥潟教授ならではである。そしてさらに中山先生に食道がんの手術に成功したら、すぐ知らせてほしいと約束してお帰りになった。中山先生はつぎつぎに難しい手術を成功させて昭和26年食道がん手術、胃がん手術の16mmカラーフィルムを作り学会発表に先立ち、自宅療養中の鳥潟教授を訪問し映写を行い、約束を果たされたそうである。
「与えられた場でやるべきことをやりなさい」
中山先生は同時に「与えられた場でやるべきことをやりなさい」ともおっしゃっている。
私がまだ入局して3~4年の頃、胆石の成因についての研究に興味があり、学会で聞いて来た胆石成分の化学分析装置がほしくなり、中山所長に希望を出した。
話は脱線するが、胆石の種類は大きく二つに分けられる。現在の日本では8割以上が、コレステロールが結晶となったものである。このコレステロール結石は真ん中から割ってみると、中心に向かった放射状にコレステロールの結晶がキラキラと光っていてとてもきれいなのです。
ちょっと考えると胆嚢の中で何か不要物がたまり、それが徐々に丸い固まりとして大きくなって石になったのだろうかと思われるが、実はこんなにきれいな結晶は、ごく短時間に出来たものであり、徐々に大きくなったものではないのです。なぜこんなにきれいな結晶体が人間の身体の中に出来るのだろうか。結晶ができるメカニズムを知りたくなったのです。
しばらくして所長室より呼び出しがあった。君たちが、いろいろなことに興味のあることについて研究をしてゆきたいという気持ちは十分に解る。しかし近年のように科学研究の方法が進歩してくると、君たちがいくらがんばって研究しても化学分析などは、その分野の科学者に勝てるはずが無い。このセンターには胆石を持った多くの患者さんがいるのです。その患者さんについての臨床研究こそこの施設がやるべき研究です。「与えられた場ですべきことをやりなさい」として分析器の購入は認められなかった。
もっともな話である。なぜきれいな結晶が出来るのかと云った科学的真実も自然科学としては大切である。しかし臨床医にとっては、その胆石をどのようにして取り出すかの方が、より重要なテーマなのである。その後も何人かの医局員が先生にお願いに上がったが、臨床に直結した研究以外の機器類は購入してもらえなかった。
当時は中山先生の屁理屈のようにも思ったが、今にして思えばもっともな話である。どのような病気に関する研究でも研究すべき範囲は広く、解明されていないことはいくつでもある。その研究に取り組んでいるうちに、患者さんの治療には直接関係はないような真理を追究する研究へと進んで行ってしまうことはしばしばある。科学的真理の追究が意義のあることは言うまでもない。しかし自分の立場で今やるべき研究であるのか? という観点で、時々振り返って考えてみなければならないことを肝に銘じた。
後年自分が指導者の立場になった時、若い医師から昔の私と同様な注文を言って来た医局員がいたが、私は躊躇なく中山先生から言われた通りの内容の話をした。はたして納得してくれたのだろうか…。
「世紀の外科医“中山恒明”の人生(9)」語録で綴る中山恒明の生き様
無縫合吊り上げ法の開発により中山外科では食道がん手術が可能となったが、しかしながら手術対象は下部食道の癌に限られていた。食道は喉の部分から胃の間の約30cmの長さがあるが、その内の胃に入る直前の10cm程度の下部食道の切除に限られ、中部食道切除は危険性の高い手術であった。上部、中部の食道の切除は右側か左側どちらかの胸を開かなければ(開胸)ならず、当時の麻酔では開いた方の肺には空気が入らなくなるため、肺、心臓に大きな負荷となってしまうためである。
その後、昭和25年頃より気管内挿管による全身麻酔法が導入され始めると、外科手術は変革の時期を迎え、現代外科として飛躍的な進歩を遂げることとなった。特に食道手術は大変革を遂げ、それまでは世界的にもごく限られた施設のみで行われていた食道がん手術が、多くの施設でも行われる時代を迎えた。そしてそれまではただ中山先生の芸を見物に世界からも多くの教授が千葉大学を訪れていたが、自分の施設でも食道がん手術を始める見通しが付いた後は、若い外科医を或る期間見学に派遣されて来ることが多くなり、国内、国外からの留学生も増えていた。中山先生は来るもの拒まずであり、見学者には熱心な指導を行っていた。先生が助教授の頃には、ほとんどの大学が手術見学を許されなかったという経験があり“外科の技術は個人のものではない”、“手術に特許は無い”との考えで自分の手術は誰にでも自由に見学を許していたからである。
気管内挿管麻酔
大きな手術を安全に行うことが可能となった、については新しい麻酔法の開発に依るところが大きい。痛み対策としての麻酔薬の開発、術中の体動および筋肉の硬直を抑制するための筋弛緩剤の開発などとともに気管内挿管が行えるようになり外科手術が急速に変化することとなった。特に食道の手術は、気管内挿管麻酔の普及により本格的なスタートを切ったと云ってもよい。手術中の呼吸を人工的に行うことができるようになったため、胸を開いての手術が安全に行えるようになったからである。中部食道は胸の奥にあるために胸を開き手術操作中に多少なりとも肺を圧排して縮めなくてはならないが、このとき強制的に肺に空気を送り込み人工的に呼吸をさせることが出来るようになり始めて、中部食道の切除手術が可能になったのである。
胸腔内食道胃吻合術
中部食道癌の手術では胸の中の食道は下部食道を含めて切除される。そして切除後の食道再建は、胸の奥の方に残っている上部食道の切断端と腹部に残った胃とを吻合する方法で行われる。腹部にある胃は周りの血管をうまく処理をすることにより胸の中に引き延ばすことができる(胃管形成)。食道と引き上げられた胃管との縫合は視野が狭く多少の困難性はあるが、吻合が完成後はもとの食道が在ったところに代用食道としての胃管が納まるので“無理のない納まりの良い術式”である。中山外科に於ける良い手術の条件の一つは “無理がなく納まりが良い”という評価基準であると考えている。
この方法は、手術自体は単純であるので通常の腹部外科のトレーニングを修めた外科医であれば誰でも出来る手術となっていた。そして回復の早い患者さんでは術後1週間で退院できる程度の手術となっていた。しかしながら大きな欠点としては、食道と胃管との縫合部に漏れが起こった(縫合不全)時には胸腔の中にまで炎症が広がり、胸腔内膿瘍を引き起こし致死的合併症となる危険性をはらんでいた。現在でもこの方法は行われているが、狭く視野の悪いところでの縫合に機器が開発され簡単に吻合が可能となったこと、さらに縫合不全対策の基本的な考え方の変化により(発想転換)安全な標準術式となっている。
手術では死なない方法の開発
麻酔法の進歩、手術方法の工夫などにより食道がん手術が安定した手術となったが、しかしまだ手術死亡の危険性はあり、決して満足出来るものではなかった。
手術死亡率が高くなってしまう大きな原因は、食道がんの患者さんの全身栄養状態が悪いということであった。食道がんは初期には何も症状が無く、食べ物が胸につかえるようになり、いよいよ食べ物が通らなくなってはじめて診断されることが多かったためである。現在のような検診制度が無い時代であるため仕方の無いことであるが、確定診断が下された段階で半数の患者さんは癌が広い範囲に拡がった状態であった。患者さんの中には栄養失調ばかりではなく、食物がつかえてしまうために唾液や食べ物が誤って気管の中に入ってしまい肺炎を起こしてしまっていることも珍しくなかった。このように全身的な栄養状態の悪く、時には慢性的な炎症を持った患者さんに身体的に負担になる大きな手術を行わざるを得ない訳であるから、術後に致命的な合併症の発生率が高いことは容易に想像される。
中山先生は“手術は大成功でも患者さんは亡くなった、では外科医の自己満足”であるとして対策を考えた。
この課題に対しても中山先生は治療法の工夫をし、無理をして一度の手術で完成させるのではなく、段階を踏んで三期に分けて手術を行う “食道がんに対する三期分割手術”を開発した。
まず第一段階として、栄養状態を回復させるために胃婁造設を行い、直接胃の中に食餌を流し込み栄養の改善を図る。栄養が改善された時点で第二段階の手術として癌病巣である食道の切除を行い、更に時間を於いて食道再建を行うというのが三期分割手術である。
この方法の導入により、手術死亡率は一気に改善し1961年頃までの1400例という世界に類を見ない多数の手術例での手術死亡率を5.8%にまで低下させた。当時、世界的にはまだ手術死亡率は20~50%という状態であった。
「世紀の外科医“中山恒明”の人生(10)」語録で綴る中山恒明の生き様
食道がんに対する三期分割手術法
昭和20年代、まだ検診制度がなかった時代であるので、食道がんの患者さんの大部分は食餌がつかえ、食べる量が少なくなっている段階では様子を見ていて、いよいよ通らなくなって始めて診断される状態であったため、多くの患者さんは栄養不良の状態であった。このような状態で大きな手術を一気に行うことは、過大侵襲となり手術死亡につながる率が高かった。そこで中山先生は、栄養状態を改善させつつ、手術を3段階に分けて行って行く三期分割手術法を開発された。食道がんの中で最も頻度の高い、胸部中下部食道がんが対象であった。
第一期手術:胃瘻造設術
いろいろな臓器のがんがありますが、その中でも食道がんは最も短期間に痩せて栄養状態が悪くなる病気です。戦後で日本国民が全て栄養不良であった時代では、特に目立っていた。食餌が通りにくくなると一ヶ月で10kg以上の体重減少などということは珍しいことではなかった。従って大部分の患者さんの治療は、まず栄養改善から始めなければならなかったのです。第一期手術としては、栄養状態を改善させる目的での胃瘻造設です。口から物を食べられないため、直接胃の中に食餌を入れる方法で、みぞおちとお臍の中間ぐらいの位置のお腹の部分に局所麻酔で腹壁に小さな孔を開け、その部に胃袋の一部を引き上げて縫い付けてしまい、直接胃袋の中にチューブを留置し食餌を入れる方法であります。(この方法は現在でも、高齢者で喉の機能が衰えて飲み込むことが出来ない、誤嚥のため食餌が摂れなくなっている方などには用いられています。)食餌と云ってもチューブを通して胃の中に入れるのですから、液状になった物しか注入することができず、何を入れるかが問題でありました。当時チューブで簡単に流し入れることができるものと云えば砂糖水、スープ、粉ミルクとか牛乳などであり栄養補給としては十分ではなかった。そこで考え出された方法はミキサー食です。
ミキサー食
ミキサー食とは、通常の人が食べる病院食をすべてミキサーにかけて液状にしたものです。これを食餌の時間にチューブを通して30~40分の時間を掛けて胃の中に注入しました。ミキサーに掛ける前に患者さんには、料理を見てもらい食べた気分を想像してもらったりもしました。しかしミキサーで液状になったとは云うものの、粘稠度が高く、また塊ができたりしてチューブの途中に詰まってしまうというトラブルがしばしばあり、看護師、ご家族も協力して如何にして上手く流し込むかというテクニックを自慢し合ったりする始末でした。また食道がんの方の大部分は、大酒家であるのでお酒を少し加えてあげることもありました。アルコールはカロリーが高く流動食としては良い物であり、また食欲を上げる作用も有るので食欲増進薬として少量用いることもあります。塩酸リモナーデ(通称”塩リモ”)という食欲増進のための液体の薬がありますが、これに少量のワインを加えた”塩リモワイン”という処方もありました。時には”ワイン増量”といった処方で用いることもありましたが、患者さんの中にはこっそりと高級ウイスキーを加えている患者さんもいました。このような時には、回診の時に中山先生はその患者さんの耳元で「看護婦さんに見つからないように」と周りにも聞こえる声で囁いておられました。胃瘻からの食餌による栄養改善効果は顕著で、通常1~2週間で次のステップに進める状態にまで改善した。後年アメリカNASAでの宇宙食開発の副産物として作られた完全栄養製剤が登場し、臨床の場でも使えるようになり、ミキサー食は姿を消しました。しかし人工の完全栄養製剤は各成分が消化された状態になっており消化吸収は楽なのでしょうが、急速に胃に注入すると下痢が起こってしまうために時間をかけてゆっくりと点滴のような形で胃の中に注入しなければならず、患者さん身体の立場で考えると一日中食餌を食べているという非生理的状況でありました。これに対しミキサー食は通常の食餌と同じように短時間で胃に入れるので、通常の食事のような満腹感もあり、ゆっくりと消化吸収されて行くと云うごく自然の代謝であるので捨てがたいものです。ある時、これらの経腸栄養剤を生産している製薬会社にミキサー食の話をしたことがありましたが、ミキサー食にはかなわないであろうとことでした。最近では更に中心静脈栄養法が開発され、点滴で一日中ゆっくりと静脈の中に栄養を入れて行くことが出来るようになり、短期間であれば胃瘻を作る必要はなくなってゆきました。
第二期手術:右開胸胸部食道切除+食道瘻造設
栄養が改善されると共に、癌腫が発育するという心配もあるので、なるべく早い段階で次のステップに進むべくタイミングを計る必要がありました。第二期手術は一連の手術の中で最も侵襲が大きい癌病巣の切除手術です。いろいろ血液検査などで栄養の改善状況を把握して手術の時期を決めるのですが、中山先生は顔の艶、声の張り、中でも患者さんの歩く姿などを重視しておられました。
手術は通常右の胸を開いて肺を圧排して縮めて視野をとり、胸の中心部にある胸部食道の切除を行うというものです。口側の食道は胸の奥の首に近いところで切断し、口側の断端は首の左側で鎖骨の上辺りの部の皮膚に孔をあけそこに縫い付けて食道外瘻とします。下側の食道は胃に連続する部で切断し、胃袋側の断端は縫合閉鎖してしまいます。第一期手術として作られた胃瘻は、そのまま残しておきます。こうして、がん病巣を含めた胸部食道が摘出されます。口から飲み込んだものは食道外瘻から排出されてしまいます。そこで、この食道外瘻と胃瘻との間を長さ20cm程度、太さ2~3cmのゴム管でつなぎます。口の中で十分に咀嚼された食物は太いゴム管を通って胃瘻から胃の中にはいる仕掛けになっています。ゴムの管の先を食道瘻の形や角度に合わせて形成し、チューブとの隙間から食べ物が漏れないようにする工作は、若い医局員の大きな仕事になっていました。食道外瘻の形とチューブがうまく合っている方では、健康人と同じような量を同じようなスピードで食べることが出来ていました。このような方の中には、多少の不便は了解の上で次の手術は受けず、10年以上もこのゴムの人工食道で社会復帰された方も居られました。
はじめは太いゴム管をいろいろに形成して用いていたが、より生体になじむ製品を求めて中山先生は当時ぽつぽつと仕事をしていた東京の目白の町工場のような秋山研究所(未確認)にシリコン製の人工食道の試作を依頼しました。これが医療分野で用いられるシリコン製医療材料の走りでありました。(余談ですが、この商売にはならないような依頼に真剣に取り組んでくれていた会社は、その後1959年に株式会社高研となり、現在ではコラーゲン医療材料の分野では世界的企業へと成長している。)
第三期手術:食道再建(胸壁前食道胃吻合術)
第三期手術は最終段階の食道再建の手術です。開腹手術で胃瘻として用いられていた胃袋を管状に形成(胃管)し、それをお腹の中から引き上げて代用の食道として再建する方法です。再び胸を開く手術を行うことは負担がかかるので、前胸部の皮膚と胸壁の間を剥がして皮膚の下に小さな握り拳が通る程度のトンネルを作る。そのトンネルを通して胃管を引き上げ、頚部に造られていた食道瘻をはずし、その部の食道と引き上げた胃とを吻合して再建が完成します。完成の形は左側前胸部に頸部から鳩尾の部に向かって数センチ幅の膨らみがあり、その中に胃管で作られた代用の食道が納まっている。食事をすると胃管が膨らみ、十二指腸に流れ落ちるまでの間は胸の前に膨らみをふれることができた。慣れた方では早く胃から十二指腸へ流れ落ちるように手のひらで上から下へ圧迫したりしていた。
この第三期の手術の最も有用な点は、手術の合併症を減らそうと云うところにあった。当時の食道手術で最も結果を左右するのは、食道と胃の吻合部の縫合不全であった。普通に考えれば食道と胃管の吻合は、元の食道のあった位置である胸の中で行なおうと考えるところであるが、もしこの部位で吻合部の縫合不全が起こり胃管の内容物が胸の中に漏れると大きな感染が広がり、これは致死的合併症となる。しかしこの手術では、胸壁の皮膚の下で縫合が行われるので、もし縫合不全が起こっても感染が広がらず皮膚の下の化膿となるだけで、致命的なことになることはありません。この方法により手術死亡は更に少なくなり3%以下にまで改善した。
その後社会的に食料事情が改善すると共に、術前栄養状態が良い段階で診断される患者さんが増し、徐々に分割手術の必要性がなくなり、一期二期手術が一度に行われるようになった。更に二期三期手術を一度に行うようになりましたが、再建はやはり、皮下トンネルを胸壁皮下のルートを用いての再建が行われていた。
中山先生の退任後には腸管吻合機器の開発などにより、本来の食道の位置である胸の中での食道胃管吻合も安全に行えるようになり、胸壁前食道胃吻合術も消えていった。時代の要求があって登場し、時代と共に消え去ったが外科の歴史の中には大きな業績として記録に刻まれるべき手術法である。